読売新聞に世界を

ニューヨーク、マンハッタンにそびえる国連本部ビル。加盟する世界193カ国がそれぞれの国益をかけ、日々さまざまな駆け引きを繰り広げる国際社会の大舞台だ。そしてそれを取材する各国メディアも同様に、日々激しい攻防を繰り広げている。

 

私の国連での2年間、人生で最も幸せではなかったが、最もスリルある2年間だった。

 

「君の主な任務は北朝鮮の年次極秘報告書を入手することだ」。読売新聞の国連担当記者として働き始めた初日、先輩記者の加藤さんは私を会議室に連れて行き、こう切り出した。国連安全保障理事会の北朝鮮制裁委員会がまとめる報告書は国連で最もガードが堅く、入手が難しい。前任の国連担当は結局入手できなかった。「ここ数年読売は共同と朝日に負けが続いている。両社とも国連での情報源を確保している。俺は、君の好かれやすい性格とこれまでの営業の実績を買って雇った。君に期待している」

 

その時点で国連に知り合いは一人もなく、ジャーナリズムの経験もなかった。まず、私はイギリス、フランス、アメリカ、レバノンなど各国の外交官、そして国連職員、会ってくれる人には全て会った。そうすると、国連メディアには上下のランクがあるのが見えてきた。トップメディアはニューヨークタイムズやロイター。扱いがいいだけでなく、外交官は自主的にこういったメディアに情報を提供していた。このトップメディアのジャーナリストは自分たちの国連内での地位を態度で表して、隠さなかった。

 

日本メディアは中の下。また、日本は国連に10社ほどのメディア置いていた。加盟国の中では一番多い数だ。読売の影響力が日本では強い、といっても、外交官にはどうでもいいことだった。国連外交官のほとんどは、「日本メディア」を概念的に一つとして認識し、私はその一員として扱われた。門前払いは当たり前、電話も話している最中に切られるなど、厳しい扱いだった。

 

日本国内では、読売の記者は情報を取る時、相手がうんというまで10分おきに電話することで知られている。また、他人の仕事場へ直接押しかけて情報を要求することでも知られている。こういった行動は、読売新聞が日本国内で揺るぎない地位と知名度を持っているからこそ許される。しかし、国連ではそうはいかなかった。加藤さんは私に、読売ならではの伝統に従った行動を実行しろ、と要求してきた。私は外交官に何度も電話し、国連高官のオフィスに無断で入った。私の国連での評判はスタート時点で最悪になってしまった。

 

2014年初めのある日。午後11時に加藤さんが電話して来た。北朝鮮制裁委員会の年次報告書が回り始め、競争相手がそれを入手することに成功した。加藤さんは焦っていた。

 

「どんどん誰にでも電話しろ」

 

しかし、結果はダメ。1年目、報告書は入手できなかった。また朝日と共同に出し抜かれた。

 

しばらくして、報告書が一般公開された。私は何百ページもある報告書を、時間をかけて最初から最後まで読み上げた。報告書の公開にあわせて韓国代表部が開いた記者会見では、韓国国連大使と一緒に、北朝鮮制裁委員会委員長、そして外交問題評議会朝鮮半島の専門家が出席した。国際メディアと外交官も出席した。会見はテレビやネットを通して、世界中の人々が見ていた。

 

スピーカー達の説明が終わり、質疑応答に移った。幾つかの質問の後、私は手を挙げた。加藤さんは私の隣に座っていて、目に見えて緊張していた。選ばれなかった。また手を挙げた。そしてまた。とうとう、ついに選ばれた。

 

「私はマシュー・カーペンター、日本の読売新聞の記者です。先ほどの説明では、委員会の活動に対する国際社会からの協力が過去15ヶ月間に増えている、という話でした。一方、今回の報告書には『貿易業界は一般的に安全保障理事会の北朝鮮に対する制裁の理解が欠けている』と書いてあります。私の質問は、国際社会の協力が増えているのならば、貿易業界の制裁に関する理解も高まっているのでしょうか。そうでなければ、何をしているのですか」。委員長は、緊張した声で話し始め、態度から自信が失せていった。

 

記者会見後、加藤さんに質問を気に入ってくれたかどうか尋ねた。先輩はただ頷いただけで、答えてくれなかった。しかし、その後のレセプションで、ベテランのジャーナリストは私がこの会見で最も質の高い質問をした、と祝福してくれた。外交問題評議会朝鮮半島の専門家に自己紹介すると、彼は私を睨み付け、「あれは難しい質問だった」と言った。

 

私の国連内の評判はひと晩で変わった。私はより多くの質問をし始めた。国連で、私は質の高い、難しい質問をする、という認識が広がり始めた。国連での国際社会から私への態度が別のものになったと実感したのは、アラブ諸国連盟国連大使から昼食会への招待が来た時だ。招待された記者10人ほどのうち、日本メディアの記者は私だけだった。

私は15分ほど早く着いた。大使はもうすでに部屋にいて、静かに私のところへ歩いて来た。私の目を見て、自己紹介せず、「第2次世界大戦後の中東と東アジアにおける米国の外交政策の違い、その違いが由来する点は」と聞いて来た。

私は試されていた。

緊張しながら、「アメリカは東アジアの国々を、海路を守るため同盟国として工業化し、中東内では主権を握る国家が現れないよう勢力の均衡を保つ政策を実行し、違いの由来はロシアの脅威の存在…」と答えた。

大使は頷き、無言で席に戻った。私の答えに満足したかどうか、分からないまま、昼食会が始まった。

外交官は私を真剣に扱うようになった。

 

質問をするのが楽しくなって来た。国連総会を担当した主任建築家が、再建工事終了後、国際メディアのためツアーを行った。私は彼に尋ねた。

 

「席に関して質問があります。近日中スコットランド独立選挙があります。これから現れるかもしれない加盟国の予備席は用意してありますか?」

 

建築家は、微笑み、ためらって、間を置いた後、「現在存在する加盟国は193カ国だが、国連総会は206席用意してある」と答えた。国際メディアの記者全員が携帯電話を取り出し、その場で世界中に「国連総会はまだ存在しない加盟国13カ国の予備席がある」と流した。

 

1面の特ダネを幾つか取り、結果も出るようになった。ISISの資金調達に対するロシアの決議案は、ニューヨークタイムズやロイターよりも早く入手した。米国国連代表部は「マシューからの電話は必ず取るよ」といってくれた。国際メディアからのジャーナリストは、私の世界情勢に関する分析を問い、それを記事に取り入れ始めた。

 

明けて2015年、その瞬間が訪れた。北朝鮮の年次報告書が回り始め、ロイターがすでに入手し記事を書いていた。まずベストの情報源に電話した。この人は私が求めていない文書を送って来た。再度電話した。2回目、見事、北朝鮮の年次報告書を渡してくれた。読売がここ数年入手できなかった文書だ。

 

2年間という短い時間で、戦争やジェノサイドで殺し合うほどお互い嫌っている国々を代表する外交官、国連官僚、ジャーナリストに囲まれながら、日本の競争相手だけでなく、欧米のトップ組織、ニューヨークタイムズやロイターに勝つこともあった。世界各国の代表者たちと生涯続くであろう友人も作れた。国連は、世界中から最も優秀な人材が集まる。国連を取材するジャーナリストは皆、同じ扱いではなかった。その世界のベスト・アンド・ブライテストに、同格として扱われた。オフレコで、世界各国からの有力で、有望な人たちと世界情勢について語り合った。

 

私の働きぶりと熱意は国連の国際社会に認められた。これからの私のキャリアを進めるにあたって、国連での経験が通用しない環境と課題に直面することになるだろう。しかし、私はどこにいても、日本人、アメリカ人、そして国際的な専門家と信頼関係を築けることができる。多彩な環境のルールを短時間で習得できる柔軟性も備えている。

 

私はあなたに世界をもたらすことができる。